しょうもない

明確な悩みもツラみもないから書くことがない イベントがない 日常の感覚を中卒の文章で書くしかない

オナニーをしたらちんちんが不条理になった

 家畜になったような気分になる。病室と肺膜が管で繋がれていて、病室から出ることができない。毎朝レントゲンを撮る時にようやく蒸し暑い部屋から出ることができる。でもこう毎朝毎朝レントゲンを撮っていると、なんか品質検査されてるみたい。

「胸のレントゲン撮りますんでね~」

「はい終わり~お疲れ様でした~」

自分の名前と専用の番号とバーコードが記されてるリストバンドをずっとつけてる。なにをするのにもそのバーコードをピッとする。別に痛くも痒くもないんだけど、なんか管理されているみたいで気分はよくない。今度マイナンバー制といって、国民全員にナンバーが割り振られるらしい。私はそのマイナンバー制度には賛成なんだけれど、やっぱり自分に番号が振り当てられるのは、人間は生理的に苦手なんだろうな。なんでなんだろう。名前と番号って何が違うのかな。個体が識別できるのならどちらも違いはないと思うんだけれど、やっぱり親がつけてくれた心のこもった識別番号じゃないとダメなんだろうな。無機質な番号は居心地が悪い。

 病気になると、人間ではなくなる。自由がなくなる。言葉がなくなる。二足歩行ができなくなる。体にカラフルな器具がたくさんついていて、「生かされている」という気分になる。手術直後は特に顕著だ。本当か嘘か知らないけれど、サルを全く動けない状況にしておくとストレスがマッハで溜まって死んでしまうと聞いたことがある。でも手術直後の足一本も動かせないストレスを考えると、あながちウソでもないのかな、と思ってしまう。人間も動物なんだなあと。ナビゲーター世界史に奴隷船貿易で奴隷を船に詰め込みすぎて3分の1が死んだと書いていた。手術直後はそういう気分になる。

 私はこの病気を中学1年生の頃から何回も繰り返していて、もう何回目の再発なのか忘れてしまった。たぶん、10回は超えていると思う。カッコつけではなく(ほんとに!)、この病気が再発すると必ず思い出す本がある。カミュという作家の『シーシュポスの神話』という本。高校1年生の夏、帰りのバスに間に合わず、しかも雨が降っている日にたまたま本屋で手に取った。バスまで2時間ほどあったので、バス停で少し読んだ。正直よく分からなかった。今も手元にあるんだけれど、もうヨレヨレになってしまっている。よく分からないなりに読み終わると妙に『不条理』という言葉が心に残った。何をするのにも『不条理』という言葉が頭にチラつく。今も病気が再発してしまうと『不条理』という言葉がパっと頭に思い浮かぶ。16歳の私にとって『不条理』という言葉はとてもシックリきて魅力的でさえあった。不条理文学というジャンルを読み漁った時期もある。感想は【よくわからん】それでいいんだと思う。

 神に誓っていいが、私は10回もツライ思いをして7回も手術するほどの悪事を働いたことはない。自分で言うのもなんだが、高校1年生の頃は人一倍勉強していたし、周りからも認められていた。今回再発したのだって、3か月の間ほぼ毎日勉強を6~7時間やっていたとこに爆発した。『不条理』という言葉でしか表せない。繭のような生活世界に突然異物が混入する。町を歩いているときにいきなり殴られたら、そいつを警察に突き出せばいいだろう。世界は等価交換でできている。私の病気は、何をもってしても交換できない。多分だけれど「死」と同質のものだと思う。

 この前読んだ文章に「病気の意味を人生に組み込むことが大事」だと書いてあった。一回きりの人生、『不条理』をどう扱うかは2択しかないんだろうか。すなわち、『不条理』に過剰な意味を負わせること(新興宗教など)、意味を剥ぎ取った『不条理』を肯定すること。生きるってなんだろう。かなり怖い。

 私は再発不安が激しいのだけれど、再発したときに生じる息苦しさや痛みというよりも、『不条理』にガツンと殴られるのが怖いんだと思う。『不条理』に殴られると、死を連想してしまう。今回はLINEで恋人に自殺するという旨のメッセージを送り付けた。まあこの感覚は大事にしていきたい。意味があるかどうかは知らんけど。

 人間か世界か、どっちかがバグってる。多分人間。